手稿 A (音楽の構造力学的或いは哲学的断章)

Written by Anonymous
Japanese Translation by Rintarô Iwashita

目次

  • 序:歓喜の法理
  • Ⅰ:抗い難き力
  • Ⅱ:座標
  • Ⅲ:時間
  • Ⅴ:音楽像
  • Ⅳ:多極的人格
  • Ⅸ:詩的交感
  • Ⅶ:反感
  • Ⅵ:偶然
  • Ⅷ:価値
  • Ⅹ:才能
  • 奇書の系譜(訳者あとがき)
  • 参考文献
  • 序:歓喜の法理

    Il n'existe pas de théorie. Vous n'avez qu'à écouter. Le plaisir est la loi.
    ———— Claude Debussy

    これから音楽についての知をより深めたいと思っている者に対して、これまで音楽についての知をより深めようとし続けてきた者が、まずはじめに語るべきことは一体なんだろうか?

    最も信用のある回答は「そんなものはない。」だ。

    音楽には言語や科学との不貞を蔑視してきた歴史がある。名を知られた作曲家のほとんどは自己の技法について物理学者のような体系的論文など残していないし、作品に表題をつけることをも禁忌とした。後世に遺された私たちは結局、「美しい音楽はいかにして作られるのか」というごく常識的な問いについて未だに、「答えは音楽そのものの中にしかない」としか言いようがないままであるし、おそらく永久にこのままである。

    しかし、そうであるからといって、凡庸な楽典に半端に寄りかかった姿勢で,手癖を野放しにして、その瞬間の気分のみによって作曲を続けていると、ある日一切描けなくなる。旋律線を描く技芸とは、すっと引いた瞬間に、すべての美を余すところなく捉えているようなものでなければならない。しかし途上の者の目の前には、死んだ線が重ねられて動機の失われた薄汚いデッサンのような音の断片が散らかっていく。

    このような徒労に疲れ果てやがて機械的な製造を繰り返す義務に堕してしまったり,依存性の高い迷信的諸作用の効果に一喜一憂したり,それらすらも能わず遂に道を歩むのを諦めてしまったりするのであれば、そういった危機に直面しうる幾らかの者にとっては、いちど音楽的行為そのものから離れて思索を巡らせることにも、気晴らし程度の意味はあるのかもしれない。

    本書が想定する読者とは、このような音楽の隘路に立っている者であり、ここで述べることはすべて、次善の方策である。 いま、無上の歓喜のうちに音楽という瞬間に没入できるのならば、音楽について思考しなければならないことは、何もない。

    Ⅰ:抗い難き力

    真に創意を結実させ得るのはただ抗い難き力のみである.そう「したい」という欲求や,そう「すべき」という義務感のみでは,それをどれほど積み重ねたとしても,およそ超人的領域に到達することはない.先達はみな,理性では加減できない狂気の発露により、そう「せずにはいられなかった」から成し遂げ得たのである.

    狂気(μανία)はカオスをその源泉とする力の顕現であり、生理学的には先天性の形質であり,それゆえ社会的視座においては病である.病である故に、望んで獲得できるものではないし,そもそも獲得しようと望むべきものでもないように私は思う.操ることのできない力が人生の追い風となり、ひととき幸福の在処へ導いてくれたとしても,それは様々な偶然や恩寵がそうさせるのであり,大抵の人間にとっては生きるための障害にしかならない。

    いま音楽の道を歩んでいる者であれば,何かしらの形で,自らに内在するこのような抗い難き力の断片を感得していることと思う.狂気が完全なものとなるとき、足元にあるのは数知れぬ犠牲である。相応の覚悟があるのであれば,その力を肯定せよ.

    Ⅱ:座標

    気づいたときには、すでにそうなっていた。そうでなければ、我々のあらゆる行為は発明であったのに,我々には,どうしようもなかったのだ.

    現代を生きる我々が音楽的行為に目覚めたとき、音楽は,——その神は——,すでに死んでいた。死亡推定時刻は捜査報告書に《4分33秒》とだけ記されており、追悼のため4分33秒の黙祷が捧げられる。歴史学者はそのように定義しないが、私にとっては、《それ》以前が近代であり、《それ》以降が現代である。

    哲学が神の死を宣告し受け入れられたからといって教会が無くならなかったように、音楽の死が宣告され受け入れられたからといってコンサートホールが無くなるわけではなかった。古代からの神との絆を失い信仰が形骸化しても聖職者の座に就くことはでき、実際そうしている者は無数に存在し、相応の成果を挙げて相応の報酬を今も得ている。

    社会は常に古臭さを嫌悪し、老いた者は若さに縋ろうとする。現代において、若い音楽家が古典的な教義をその表面だけ塗り替えながら用いて自らの芸術と宣言し、それが日常に溢れていても支障がないのは、単にそれが必要とされるからであり、単にそれしか必要とされないからである.因習に束縛されていない若い聴衆のまっさらな心によって、それらは新たな生命を吹きこまれる。眩いばかりの照明により華やぐ大舞台の,最新鋭の装置が打ち震わす大音響は,若き芸術家の神性を護ってくれる。少なくとも、かれらとその信奉者が若者の座を追われ、レコード盤が二束三文で中古市場に出回るようになるまでは。

    つぎに気づいたときには,すでに何世代もの交代の末だ.やがて音楽の死の目撃者さえ死する刻を迎える.そしてわれわれは,そのとき初めて音楽と,——その神と——,心静かに挨拶を交わすことができるようになるだろう.

    Ⅲ:時間

    一秒が最も長くなるよう身辺を整えよ。原理的には、作曲に必要な時間は聴き手がそれを聴くために必要とする時間を超えない。

    本質的には、ある音楽家が生涯をかけてこの世に残すことのできる曲はたった一曲だけである。無限の時流のうちに、他のものはいずれ忘れ去られる。その一曲を常に思いながらペンを執れ。

    Ⅴ:音楽像

    音と音とを詩的に連結せよ。

    音楽は音の連なりが聴き手の心に結ぶ描像である。以降それを便宜のため音楽像と呼ぶ。[a]フィルムの一齣の連なりが動画となる臨界点を、[b]字の連なりがことばとなる臨界点を、[c]線の連なりが輪郭となる臨界点を,それぞれ音楽と関連付けつつ想起せよ.

    [a]慣性力を感得するまで音楽的行為を素速く畳みかけ、そのなかで遂に励起するものを観察せよ。

    [b]音楽像を攪乱する音程を不協和音と呼ぶ。我々はどのようにして、その音程が音楽像の中に《在るはずがない》という判定を下しているのか考えよ。

    [c]音楽像として投影されるのは,そこにひとつずつ在らしめた音の集合ではなく,そこに在らしめ《なかった》音の集合である.その現象を観察せよ.音楽がはじまる以前の、あらゆる音が存在する可能性のある時点においては,音楽像はサーマル・ノイズとして存在し,有意な情報を持たない.

    任意の曲を脳裏に再生し、その音楽像を解剖学的に詳察せよ。解剖学的鑑賞は、通常の鑑賞時にあらゆる情報を看過している自己への驚きをもたらすだろう。

    音楽像は連続性であり、線形の記憶である。身体も、レコードも、そこで鳴り響いている全ての音を一つの波動に還元し、電気信号として記憶している。ゆえに音楽像自体を非線形的に変化させることはできない.歌や楽器の演奏として表現しようととする際に行われるのは音楽像から旋律や和声への抽象化・記号化・言語化であり,音楽像そのものの描写ではない.

    啓示により授かる未詳の音楽像も,そのような全ての音の波動であるのにもかかわらず,我々はそれを一旦旋律や和声に還元し記譜することしかできない.このような情報の損失を伴わない直接記録法が発明されれば,音楽はいま我々が知るよりもはるかに驚きに満ちたものとなるだろう。

    Ⅳ:多極的人格

    我々はようやく、人格が身体と一対であるという思い込みから逃れることができるようになった。未だに戸籍上の名前は一つに限定されているが、芸術家や芸能人でなくとも二つ以上の名前で二つ以上の社会に知られることが現代においては普通のこととなったのがその理由であると考えてよい。代替世界は未だ人形遊びの域を超えないものであるが、やがて少女は自己の内に老夫を、老夫は自己の内に少女を見出すようにさえなるだろう。

    多極的人格は身体を共有し、時間を分け合い、交互に前景化する。啓示の瞬間に何を授かることとなるかは、個々の人格の性質に従う。無能な理性はやはりこの交代をも操作できない。我々が《モード》と呼ぶのはこの多極的人格遷移の社会への還流であり、俯瞰すれば大気の大循環である。

    抑圧している人格、存在しないことになっている人格はないか?根源的自由のうちに反省してみよ。

    Ⅸ:詩的交感

    詩はゆめうつつの薄明を浮遊する生命であるから、
    昼においてあきらかに目覚めている者がその微細な燐光を観測することはない。
    それは詩人自身においてさえも同じであり,
    その虚偽の失意により自ら採取した標本を野に放ってしまうことすらある.
    ———— 『非線形詩学 - Poïétique Nonlinéaire』

    詩的交感は非現実における現象であり,祝福であり、未知の感覚器官の反応である.そのとき、粗描画の瞳さえ恋人のようにこちらを見ている。しかし,それを病的に拒絶しない限りにおいては,これらはおよそ誰の人生においても日常的に観測される光明でもある.われわれは,ほぼ全ての状況において詩的概念と理性の枠組みの外で向き合わねばならず,意識してできることは一つしかない.自分が詩的な状態でないと認識している時,つまり現実が身体を強固に拘束している時には創作上の判断を留保せよ.

    多極的人格遷移により,作られつつあるものについての自己評価も遷移する.詩的交感の中にいる人格による否定には耳を貸すべきだが,その外にいる人格による否定は無効である.かれは音の連結を認識してはいるが,音楽を鑑賞してはいないからだ.

    反対に《世の友》である芸術,つまり社会的,商業的な制御のうちにある芸術は詩的な姿を持ちつつも現実を彩るためにある.詩的交感の中にある者がその存在意義を判断したとて,詩的なものを現実的に評価できないことと同様の齟齬を産むのは明白であるから,差し控えるべきだろう.

    詩的集合は音楽の集合を包摂しているが,音楽は理性的判断材料になり得る物質性や真偽を持たないため,詩的交感を直接的に励起しやすい芸術として,詩を超越している.

    Ⅶ:反感

    悲哀と絶望のうちには、悲哀と絶望を表現せよ。

    音は空気の歪みが伝わるものであり、音楽像は認知の歪みが大系化したものであり、いずれの理由からも歪みという概念からは逃れられない.歪みを恐れず舵を取れ.

    Ⅵ:偶然

    まず作曲者自らを驚かせない音楽は誰をも驚かせない。

    即興演奏が未詳の音楽を生み出すのは手が滑った瞬間である。楽譜に記された教義の礼儀正しい遂行と、即興からの破戒的創造は常に相容れない。

    Ⅷ:価値

    価値とは他者の保証である。そして,価値とは他者の保証でしかない.他者が保証する間しか価値は存在しえないし,他者が保証しないものに価値はない.このような価値の性質こそがまさに,物質性を具有しない音楽なるものが価値を持つ所以でもあるが,この性質の残酷さにより,有意でありながら無価値な幾億の創意が失われてきた.なぜなら《そのとき》かれには保証人がいなかったからだ.これら無数の黙殺された火種を常に想起しつつ歩め.

    Ⅹ:才能

    才能とは社会への適性である。表現が社会に認識されたときに、社会が固有の――移ろいやすい――価値尺度でもってその表現を優遇するかどうかという文化的偶然性である。この選別によって、かれらの時代にかれらの社会の中で《不適》とされた創意は無限に存在するが、すべてそれらは有意であることを忘れてはならない。自らに備わっている価値尺度が自らが生まれ育った社会と時代に依存したものであり、それを離脱していない状態にあることを観察せよ。そして、そこから離脱できるかどうか想像せよ。

    奇書の系譜(訳者あとがき)

    2009年に他界した祖父は詩を書く人であった.祖父が住んでいた足利市は相田みつを,あるいは売野雅勇といったポピュラーな詩人に縁のある土地だが,祖父が書いていたのはそのどちらとも縁のない,のみならずあらゆる世俗から歓迎されないような,ニヒリズムに満ちた晦渋な詩であった.遺品を整理するうちに,その創作が単なる隠居老人の手遊びの範疇を超えたものであることが,まだ現代詩についてなんの素養もなかった当時のわたしの頼りない知的射程にもようやく収まってきたが,多忙のうちに,それらと誠実に向き合う機会を持てないまま長い年月を過ごしてしまった.

    子供の頃からあれほどに憧れ,そこで生活することを人生の最優先事項に挙げていた大都市東京の,その狂乱に,狭苦しさに,澱んだ空気に適応できなかったわたしは,広尾から高輪へ退き,多摩川の河川敷で息をつき,それにも耐えかねて故郷である栃木へ逃れ,やがて事業を廃止し社会との関わりをほとんど喪失し,30代後半にしておよそ隠居老人のような生活を送るようになった.

    祖父が原稿用紙に手で書き写していた,ポール・ヴァレリーの『テスト氏』のいくつかの物言いに共感できるようになり,19世紀末フランスの影を21世紀日本のわたしが背負っていることがようやく謎でなくなってきたのは,この頃からだ.ドビュッシーは『テスト氏』に擬えてクロッシュ氏に自身の音楽論のうちの背徳的なところを語らせた.サティに至っては生き様すべてがテスト氏のようだ.しかし,わたしは未だに《途上の者》のままだ.遺品の書籍はほとんどが廃棄されたにもかかわらず,半分も読了できていない.中には,ステファヌ・マラルメの詩集のように途方もないものも残されている.

    大勢の者が真実であると信じたい虚偽のほうが,俄かには理解し難い事実よりも高い点数を獲得するパラドックスを抱えた未成熟なソーシャル・メディアに言論空間を掌握されたわたしたちは,結局このマスメディア時代からの悪癖を引きずっているのみならず,その愚かさがより可視化された状態を常に突きつけられながら生きねばならないままだ.芸術の道を歩む全ての者はあるべき姿を多数決で示され,それとの差を常に採点され,不適合者は落ちぶれてゆく経緯さえリアルタイムな数的記録として衆目に晒される.

    これならば、誰に読まれるでもない奇書を綴り続けた故人のほうが,よほど神に祝福されていたといえるだろう.であるからわたしも、沖で釣った魚を海へ還すように、脱中心的集合知から引き揚げた思惟をを脱中心的集合知へと還流させて遊んでいるだけの無責任なディレッタントでい続けよう。

    A:参考文献

    『パイドロス』プラトン