岩下倫太郎アトリヱの公式なお報せです。
【概略】
・ 謝辞ののち、経緯を振り返ります。
・ 2014年の廃業以降は商業製作には関与していません。
・ 今後も商業製作に関与する見込みはありません。
・ 現在は、家業であった電気設備の仕事を継承して営んでいます。
・ 創作の活動は個人的、内的な探求として廃業後も休みなく継続しています。
・ それらの作品は随時公開していますが、公開したことを発表はしていません。
・ 現在活動の軸足は仮想世界にありますが、匿名であることをご容赦ください。
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過去の作品をたよりにアトリヱのウェブサイトを訪れてくださる方がいらっしゃることを知る機会が、廃業から10年を経た今に至っても時折あるということを大変有難く思います。平日の仕事を終えたのち、休日に限って可能になる創作の活動は、フルタイムで行うクリエイター活動と比較すると芸を究め保つことに困難を伴いますが、それでもなお、私の仕事観・芸術観にはこのような活動の形式が相応しいものと感じています。プロフェッショナルの目線からすれば、今の私は未熟な技術を拠所に空想の世界と戯れているだけの趣味人でしかありませんが、自分の人生にとって創作はひきつづき非常に有意な営みであり続けていますし、それが潰えるということは今後もあり得ないだろうと思っています。
1990年代に、高校生であった自分がシンセサイザーを使って作った音楽を録音した《デモ・テープ(当時録音媒体はカセットテープがいまだ主流でした)》を投稿したことが自分の創作物を公的なものにする営為の端緒であったと記憶しています。このとき、わたしの拙作をCMJKさんが音楽雑誌『KB』にて、つんくさんがNHK-FMの『ロックン天国』にて取り上げてくださったことが、芸術の教育を十分に受けていない自分でも創作を通じてプロとして活動することができるかもしれないという可能性の探求へと導きました。その後、せっかく入れてもらった大学を中退したりなど、さまざまな犠牲を払ってもその道を突き進むことになるのですが、90年代後半からインターネットが普及しはじめたことを契機に、既存の権威に才能を見出してもらう代わりに、自らの作品への賛否を自らのメディアで問うようになっていきます。(当時製作したウェブサイトのデザインは、現在でも当該のドメインにアクセスすることで一部閲覧可能です。)
この、自分のウェブサイトを自分でデザインして発表するという過程で《デザイナーとしての私》と《作曲家としてのの私》とが別個に認知されることとなったのですが、《Web1》時代のウェブ・デザインとそのデザイナーの足跡は《Web2》以降は否定的に捉えられているため、往時のアトリヱの売上はほぼすべてウェブ・デザイン制作の案件に基づくものであったにもかかわらず、2024年現在は私の名前をGoogleなどで検索しても《作曲家》としての情報しか取り出すことができない状況になっています。いずれにしても、クリエイターというのは担い手を希望する若者が絶えない職種であって、私が業界にいるかどうかに関わらず誰かが仕事を成し遂げうる世界であり、私は2011年の震災における経験などを通じて、どちらかといえば《あまり他人が好んでやりたがらない》けれど《社会にとって必要とされている》仕事を稼業とする人たちと共に歩むことに関心が移っていきました。やがて2014年にはアトリヱを廃業して、もともと父親が営んでいた電気設備の仕事を継承することにし、今年でこの仕事も10年目というひとつの節目を迎えつつあります。
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SNSなどでは私の廃業に際して「活動休止した」という言われ方をしているのを散見するのですが、無期限で休止しているのはクライアントからご依頼があり、〆切を守って費用を頂戴する商業の案件に限ってのことです。わたし自身が内的な創意の発露に動かされて執り行っている創作活動は、この創意そのものが私自身にとってさえ制御不可能なものである故に、廃業後もアトリヱにおいて休みなく継続しています。ただ、これはあくまで個人的・内的な探求であり、作品を通じて社会的な利益(名誉や富など)を得ることを意図していないため、つくられたものは随時《公開》していますが、公開したことを《発表》はしていません。
また、2017年ころからのVRの興隆に伴って、私的探求も仮想世界を主な舞台としたものが増えてきていますが、これらは本名(乃至ペンネーム)での往時の活動との関連性を持たせない形で匿名的に行っているものです。制作手法などの特徴を手掛かりに、別名義で展開されている私の作品を推定することは比較的難しくないかもしれませんが、もし偶然発見された方におかれましては、別個の人格を持つものとして、関連性を喧伝せずに楽しんで下さいますようお願いします。